アッキーブログ

アッキー

30代/東海地方在住/交通事故で寝たきり生活/作業療法士歴10年以上/健康・思考/前向きなエネルギーに変える情報をブログで発信/格闘技/フォロー歓迎/

交通事故から得た○○

アッキーです!

私の人生で大きな分岐点となった交通事故の話を書きます。

 

中学3年生の秋、トラックに撥ねられる

中学3年生まで遡ります。いつも通りの朝、学校へ向かうため自転車に乗りいつも通りの通学路。変わらない景色。すれ違う小学生の集団登校。空は晴天。特に車通りも少ない朝の道。見通しの良い交差点。しかし、何故か昔から事故が多発している交差点が一つある。

 

大体の理由は一時停止無視。いつも通りに通ろうとスピードは緩めず走行。こちらが優先道路。少し離れた位置から大きめのトラックが走る。距離もある。私が先に交差点に侵入。。おかしい、、速度が速いままだ、一時停止をしない。。

 

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バアアアァァァーーーーーッッッッンンン❗️❗️

と大きな音が聞こえた瞬間に目の前が真っ暗。

 

 

 

意識がなくなった

数分経過後に気づいて起きあがろうとすると「動いちゃダメ❗️救急車呼んだから」と女の人の声。車のハザードランプがチカチカと見える。すぐ近くには変な方向に折れ曲がった自転車。何人かが話している声が聞こえるけどわからない。そうこうしているうちに救急車が到着。声をかけられるも何を言われているかわからない。

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そしてまた意識がなくなる。次に気付いた時は夜23時頃。目を開けると横に母がいた。

 

母「あ❗️起きた❗️❓」震えた声だった

自「・・・何があったの❓」

母「何も覚えてないの❓トラックに跳ねられたの。わかる❓」

自「わかんない、、何で病院🏥❓」

 

母は悲しそうな顔で見つめる。そんな状況が全く理解できず、頭の中が働かない。体も動かない。不思議と体はちっとも痛くない。わけがわからないまま、その日は知らぬ間に眠りに落ちた。人生の中で最も最悪の日がここからスタートした。

 

 

事故をした次の朝。昨夜より頭が回る。昨夜、母親と会話をしているが実感が持てていなかった。そしてようやく実感。とんでもない事が起こったと。。 看護師が病室の窓を開ける。風が入り自分の髪がわずかに揺れる。ズキっと脳天に突き刺さる痛みが走る。目を動かすだけでも顔面全体が痛い。

 

母親が家から持ってきた手鏡で顔を見せてくれた。顔の左半分が腫れ上がりおでこの皮膚が血まみれでわからない状態。眉間の下は黒く穴が空いてるように抉れている。ショックだった。。もう戻れない。今まで通りの生活なんてもう送る事もできないんだろう、、そう思った。

 

 しばらくすると担当医が入ってきた

医「まだ動いちゃダメだよ。かなり頭強く打ってるからね。」

自「はい」

医「色々説明しようと思うんだけど、聞く❓お母さんだけにする❓」

自「聞く」

医「わかった。じゃあ言うね。」「アッキー君は交通事故で、左半身打撲。及び全身至る所の骨折。擦り傷。裂傷多数。後は頭蓋骨が少し歪んでる可能性あり。まだ検査しないと分からないところもあるけど、、、今は頭に強い衝撃によって、脳浮腫という状態。頭の中が腫れあがってる。しばらくはベッドの上での生活だよ・・・正直今までの生活が送れるかは体の回復次第な所もある。少しでも良くなろうね」

自「・・・・・」

医「じゃまた顔出すよ。安静にね」

 

 

涙が出た。俺が何したっていうんだ。指先を動かしたり風が当たるだけで跳び上がるほどの痛みが全身を襲う。言葉にできない程の強烈な痛み。もう、人生終わった。 そんなことしか思えない日だった。

 

 

先生が病室を後にし尿意を催した。部屋から一番近い所へ向かいたかったが指一本動かすと脳にまで響くような痛みが走る。結局尿瓶で看護師さんにとってもらった。その後の大便までもベッド上だった。いきむ事ができず物凄く時間がかかる。そんな姿を看護師さん達に見られる。。思春期真っ只中の自分にとって自尊心はズタズタだった。

 

朝食は食べれず水も飲めなかった。看護師が介助し食べさせてもらった。しかし、ベッドをギャッジアップしなければならず全身に激痛が走る。身体を起こすだけで大量の汗をかいた。結局柔らかいお粥を数口食べ、水を少し飲んでその日は終わった。

 

 

衣服の着替えなんてもってのほか。 痛い事がこれほど辛く、動けない体とは人間らしい生き方が全くできず、生きる価値がないと部屋の真っ白な天井を見ながら思い続けた。「もう死んだ方がマシだ。」そう思う事しかできなかった。

 
 

入院2日目。

身体の痛みは強烈だった。未だにあの日を超える痛みは経験した事がない。。あまりの痛みで眠ることができない。夜になると熱が出た。39℃台。左の顔面は腫れ上がり目が開けない状態だった。鼻血が止まらず、鼻で息ができない。口呼吸だ。苦しくて一睡もできず結局朝まで起きていた。眠い。。痛い。。この苦しみから解放されたい。周りの事など考える余裕もない。
 
 
3日目、、4日目も同様の身体の状態だった。
5日目に差し掛かった日に、顔の腫れと熱がようやく落ち着いてきた。少し身体を動かそうとすると初日より動く。強い痛みはあるが、和らいでいた。少しだが良くなった自分の身体にとても喜んだ。しかし、すぐに強烈な吐き気に襲われ食べたものを全部出した。身体を動かした反動か?身体を動かしたくても頭のダメージが大きく上手く可動ができない。
 
それでもできる事は、、自分でできる事はやりたかった。ベッド上で排泄、食事から何から何まで人のお世話になっている自分がとても惨めで仕方なかった。特に排泄は地獄だった。人に見られることが毎回恥ずかしくて仕方なかった。。ポータブルトイレを提案されたが同室の患者の前でするのも嫌だった。それも思春期のプライドが働いていたのだろう。
 
身体を起こして食事をし排泄を済ませて学校に行く。何もストレスなくできたことがこの狭い病室から自力で出ることすらできない自分。。不安が強くなった。一生だれかの世話になりながらじゃないと生きていけないのか?まだ15歳。高校受験が控えてるのにこのままでは行けないじゃないか。ここで終わるのか?そんな心の中の不安でいっぱいになっていた時でもずっと、そばにいてくれたのが私の母親だった。
 
 
痛みで苦しくうなされていた自分を見てどう思ったのか。ニキビが少しある程度の顔や身体は半分以上ガーゼや包帯、左手はアームスリングでぶら下げ変わり果てた姿に何を思っただろうか。その場から離れない母に申し訳なさでいっぱいだった。
 
お母さん、心配かけてごめん
 
息子が突然そんな変わり果てた姿になったら悲しいよね。辛いよね。苦しいのは自分だけじゃなかった。家族も同じように苦しんでいたんだ。
 
 
 

入院から10日

少しずつだが歩行器で歩く速度も速くなって行き身体の回復を感じた。しかし頭に響くような痛みは付いてくる。本当にこの頭の痛さはなくなるのか?病院のナースステーション前の休憩スペースで漫画を読み過ごすのが楽しみになっていた。

 
狭い病室で過ごしたくなかったからだ。しかし、座り続ける体力がないため身体がヘトヘトになってしまう。すぐに自室に帰ったりを繰り返していたが。それでも身体のペース配分がわからずソファーで横になり動けなくなっている自分を看護師さんが見つけて助けてくれる場面もあった。
 
 
あくる日、担当の先生が病室へやってきた
医「だいぶ動けるようになったって聞いたよ。良かったじゃん。そこでなんだけどリハビリ受けてみる❓どう❓」
自「リハビリ❓体動かしたりするやつでしょ❓もうやってるからいいよ」
医「プロがいるからさ。身体は回復してるから大丈夫だと思うけど。一回見に行ってみて。」
 
そういうと立ち去っていった。その後、看護師さんが車椅子を持ってきてリハビリ室まで見学に連れてってもらった。病院の地下一階。リハビリ室に入ると中はとても広い。そこで目にしたものは沢山の患者と職員。
 
ざっと20人?くらいかな。ただ、リハビリ室での光景が目に焼き付いた。ほとんどは高齢者の方がリハビリを受けていた。半身不随で歩く訓練をする人。ボールを投げている人。何やら機械に乗って立つ訓練をする人。。様々だった。ただ、印象に残ったのがここで訓練に取り組んでいる一生懸命さだった。
 
当たり前に出来てたはずの動きを再獲得しようと必死に取り組まれている。 その光景に衝撃を受けた。 当たり前の事を当たり前に行えない人達が沢山いるのを初めて知った。健康な身体を手に入れてるからこそ当たり前を意識せずにできていて、体に不自由をきたすことで初めて当たり前じゃなくなる。その事に初めて気付いた。
同時に親に申し訳ない気持ちにもなった。(今の自分は当たり前の事ができないと認めてしまうことになる・・・)もしここのリハビリを受けたらそれを認めてしまう事になりかねん。
 
また思春期プライドが発動し私はリハビリを受けるのを拒否した。今思えば素直にリハビリを受ければ良かったと思ってます。もっと色々感じ取れたのになぁ〜って。
この安いプライドが自分で日常生活を取り戻す❗️と心に決め日中はベッドから離れる時間を増やした。同時に自分の生き方について自問自答する日々が始まった。中学3年生でやりたい目標もなく夢がなかった。とりあえず高校を卒業したら働きたい。それしかなかった。やりたいことがないため進路に悩んでいた。
 
この時に思ったのが「人に役立てる仕事がしたい」が、大きくなっていた。食事をしっかり取るように意識した。体力はグンと上がり日中起きていられるようにかわっていったか。身体中擦り傷だらけだった所は瘡蓋になり身体中痒かった。病棟内も歩行器なしでも歩けるようになっていった。 とある日にCTの検査結果を報告された。
 
医「検査結果も順調だし脳浮腫も落ち着いてきたしどこかに脳出血とかもないね。とりあえず今のところ大丈夫だね。だいぶ動けるし退院も考えて良い時期になってきた。本当に良かった良かった❗️初めはリハビリもいると思ったけど若さだね〜」 回復するに連れ、苦労した立つ事も歩く事もトイレも食事も一日を過ごす大変さも感じなくなっていた。
 
身体の痛みは多少あるが解放されて退院の話まで来た。本当に長かった。 そして、事故から約3週間後退院する日が決まった。当時の状況からは3ヶ月以上の入院と言われていたが予想よりも早く退院に繋がった。
 

今、この経験から学んだ事

両親に連れられお世話になった病院スタッフに挨拶をし家へ帰る事ができた。 今思えば自分で突っ込みどころが多い病院での過ごし方であったと思います。リハビリを受ける流れを拒否したり、自分で身体を良くするとかやり方もわからないくせに心に決めたり、とか。自然回復に任せただけなんですけどね。
 
恥ずかしいとか頑固とかプライドとかの塊だった当時。それを受け入れる自分にまだ成長していなかったんだと思います。後付けになりますが素直さって大事だなって。受け入れるって大事だなって。
 
ただ、この入院生活に体験せざる追えなかった、看護師さん達がしていただけた身の回りの看護ケア、リハビリ室の訪室、先生との会話、全部が人の為を思う仕事だった。そんな大人になって働いてもそう思いながら働ける人達がとても格好良いなと思えた。ただ、勉強をしてこなかった分、医療の世界に自分は行けるのか?という自信のなさもあり、葛藤しました。この入院がなければ作業療法士は目指さなかったと思います。
 
事故をした頃の事を書いていますが、もう15年以上前の出来事。あの頃の傷痕はいまだに残っていますが今となってはよくここまで回復したと身体を褒めてやりたいぐらいです。見た目はほぼわからないくらいまで落ち着きました。大体そうなるまでに20歳までかかりました。事故を起こしたのが中学3年生なので約5年ですね。
 
左手薬指と小指の爪が根本から剥がれしばらく生えてきませんでした。薬指に関しては指先の損傷がひどく爪が今の状態になるまで3年近くかかったのを覚えています。爪が伸びてくる付け根の部分が一部しか残らずでしたがあるここまで形になって満足しています。

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おでこも今はとても綺麗な状態になりました。見にくいですが中央右側に傷痕がありここが当時骨までパックリと割れました。本当に自分でも思いますがよくここまで回復したと。その他いろんなところに傷はありますがこの傷達は自分にとって今となっては大事な傷でもあるのです。
 
勿論、交通事故にあうことなんてよくないですよ。下手したら今こうやってブログを書ける状態ではなかったかもしれないし死んでたかもしれない。。ただ、、、ただね。。死ぬ程つらい痛みを経験し生きる事を諦めたくて悲しく暗い中にいた自分を引っ張り上げてくれた周りの人の優しさが私にはとても眩しかった。綺麗事じゃない。純粋な「愛情」に助けられたんです。これは確かだ。傷跡は必ず朝起きて顔を洗うときに必ず目に入ります。毎日私は思うのです。
 
 
 
 
私が交通事故から得たことそれは、、、
 
 
「今日も生きよう」
 
 
 
 
と、、、生きる事って大変ですよね。当たり前が来ない日が突然やってくると受け入れられないぐらいのドン底に落とされます。
 
私は傷痕は生きようと命を諦めないという生命力に思えます。今は良き時代です。こうやってブログやSNS、配信を通して伝える手段がいくつもあります。この経験から私が声を大にして言いたいのは、どんなに辛くても・命は粗末にしないで・失敗しても生きてる事が大事・また這い上がれる大まかだとこんな感じです。
 
今でも大事にしているし、人にも伝え歩いています。自ら命を投げ出さないでください。どんな形であれ、こうやって過去を乗り越え生きてる人もいるんです。
 
私は私の人生の中であの交通事故がなければ今の自分に出会ってなかったです。あの事故がきっかけだったから作業療法士の仕事、リハビリを通し日常生活の再獲得を目指す関わりができています。
 
だから、事故はあったのは不幸でしたが肯定に変えて受けとめました。どんなにドン底でも身体を張って学び感じました。今は障害を抱えた方達を沢山見させていただいてます。
 
自分の生涯をかけてその人達を前へ向かわせれれば、、心を救いあげればと思うのです。それが私の今生きる軸となっています。
 
ここまで読んでいただきありがとうございました❗️